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日本的CSR構築の為に~コミュニケーションとガバナンスの「乖離」を問う~
2012年01月01日
※CRSジャーナル2012年 元旦主筆論説
【CSRから振り返る2011年】
2011年はわが国の「CSRの仮面」が剥がれた年であり、各企業の「CSRの素顔」が露わになった年でした。東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所のもたらした惨禍は人々の物心両面に大きな傷跡を残し、いまだに癒えていません。そしてその中々でわれわれが見出した数少ない希望として、震災後のコミュニティへの再回帰意識の高まりに呼応するようなCSRやソーシャルビジネス、寄付文化の再興などがあります。
企業によるCSRとしての震災復興支援や、継続的な復興を可能とするためのソーシャルビジネスなど、未曾有の大災害への人々や企業の対応が、政府の政策とは別に、社会問題におけるCSRやソーシャルビジネスの有効性を明らかにしたと言っても良いでしょう。
そして2011年後半の「オリンパス問題」は、優良なグローバル企業と目されていたオリンパスが実際にはガバナンスに著しい問題を抱え、多くのステークホルダーを欺いただけでなく、日本の資本市場および企業システムに対する世界的な不信を招くことになりました。
この問題はオリンパス特有の問題ではなく、「CSRの前提」となる「ガバナンスと、それを実践する為の適正なコミュニケーションの欠如」、監査法人という「フェールセーフ機構の無能」に問題の根源があり、どの企業でもいつ何時自社が同じような状態となるか、経営規模の大小や業態に関わらず、対岸の火事として片づけられる問題ではありません。このように2011年という年は、わが国のCSRにとって「毀誉褒貶」のある年だったと言えます。今回はこの点を振り返り、来るべきCSRのあり方について考えてみましょう。
【CSRの「必要条件」「必要十分条件」「十分条件」】
CSRは企業の経済活動を通じて、企業の経済的利益のみならず、社会的な厚生を増進させることを目的としています。しかし安直な理解をする人々によって[CSR=社会貢献]という誤解が広まっています。社会貢献はCSRの「一部分」を構成しても、それ自身がCSRを代表するものではありません。
企業が自らの活動を通じて社会的厚生を増進させようとするとき、社会貢献という方法は企業内外に大変わかりやすいものとして映ります。現在はコーズ・リレーテッド・マーケティングなどが定着しているため、企業の社会貢献をテーマにした、コーポレートコミュニケーションは非常に盛んであり、東日本大震災後は特にその傾向が強くなっています。先ほど言及したオリンパスも自社の製品を救援機材として供出し、多額の義援金を被災地に送っています。
しかしCSRの一環として企業が社会貢献を行うのは「十分条件」あるいは「必要十分条件」であって、「必要条件」ではないのです。企業は各種の法令の規制を前提として、事業機会を窺い、組織を編成し、必要な経営資源を投入します。これは企業経営にとって不可欠な行動であり、コーポレートガバナンスやマネジメントと呼ばれるものです。
ガバナンスやマネジメントは企業がミッションを実現し、CSRを実践するための「必要条件」です。簡単に言えば、企業が社会貢献を果たし、それを社内外に発信(コミュニケーション)するためにはガバナンスなどが適正に行われていなければならないのです。つまり法令順守(コンプライアンス)や内部統制、品質管理、労働安全衛生などといった日々の業務が適正に行われていなければならないということです。
ガバナンスやマネジメントなどによってCSRの必要条件を満たし、初めて社会貢献などの倫理的責任やフィランソロピー的責任が「必要十分条件」そして「十分条件」となり得て、ガバナンスを基礎とした適正なコミュニケーションが可能になるのです(下図参照)。これは社会問題の解決そのものを事業化しようというソーシャルビジネスにおいても同じことが言えるでしょう。否、ソーシャルビジネスの場合は「医者の不養生」や「紺屋の白袴」とならないためにも、より厳しく必要条件のクリアが求められるでしょう。
【コミュニケーション偏重のわが国のCSR】
『CSRジャーナル』では[CSR=経営]である、という立場をとっていますが、CSRは決して経営の「スペシャル」な部分ではありません。経営の中で自社に課される責任を果たし、その上で経営による社会的厚生の増進が求められます。しかし、わが国のCSRは[CSR=社会貢献]という誤解がいまだに主流をなし、そのために「見せかけのCSR」としての社会貢献がまかり通っており、企業の足腰であるガバナンスやマネジメントと緊密な関係を持てない「コミュニケーション偏重」となっています。
ガバナンスやマネジメントと連続性がないコミュニケーション、特に社外を対象としたものは、グリーンウォッシュのように、内容を伴わず、それ自体が経営資源の浪費やダウンサイドリスクの増大につながります。
このようなわが国のCSRの偏りは、企業と経営陣そのものが「CSR観」を自ら彫琢せずに、経営の真の必要性からではなく、「社会的潮流としてのCSR」に便乗しているからではないでしょうか?そしてこのような企業の無理解に対して、CSRコンサルタントやマーケターがPRやプロモーション、各種「マーケティングの一手段としてのCSR」という切り口で接しているが故に、内実無きコミュニケーションによる見せかけのCSRが横行しているのではないでしょうか?本来はCSR戦略を実施する方法の一つとしてマーケティングなどがあり、このような切り口は本末転倒と言えるでしょう。残念ながら日本のCSRコンサルティングの多くはマーケターによって行われており、その属性の「偏り」がCSRのあり方を歪めていることを否定するのは難しいことであります。
【見せる「だけ」のCSRからの脱却を】
本論はマーケターがCSRに関与する事を否定するものではありません。むしろCSR戦略を実施するときに、マーケターの存在は重要です。問題は企業のCSRを見せる、つまりコミュニケーションをとることと、ガバナンスの乖離にあるのです。東日本大震災で復旧・復興に手を差し伸べ、さまざまなコミュニケーションに取り組んだ企業は多くありましたが、一方でこれらの企業のうち、経営規模や業態を問わず、オリンパスのようにガバナンスやマネジメントに重大な問題を抱えている企業は当然存在します。
「やらぬ善よりやる偽善」と言います。東日本大震災を例にとれば、ガバナンスやマネジメントに問題のある企業でも、支援が被災地の益になれば良い、という考え方もできます。しかしそれは受益者に偏った考え方であり、本来福祉や社会保障によって実現されるべきものです。
企業は利益を上げながら社会的厚生を増進する存在であり、見せかけだけでなく、本当に企業内外とコミュニケーションすべき内容を持たねば、それは企業の「持続不可能性」を高め、最終的に企業自身だけでなく、社会がそのツケを払うことになります。われわれは「コミュニケーションすべき内容」がガバナンスやマネジメントを通じて作られることを、もう一度振り返る必要があるのではないでしょうか。
東日本大震災という悲劇の中、数少ない希望としてCSRの実践が広がりを見せました。この希望が蜃気楼のごとく掻き消えないためにも、わが国のCSRはコミュニケーション偏重の見せる「だけ」のCSRから脱却し、事業と社会問題を統合するためにも「ガバナンスやマネジメントとコミュニケーションを一体化させるCSR」の実践が望まれます。これはCSR部のような部署や、CSR担当役員を設けるという制度面への投資だけではなく、それを担う人的資源への投資が不可欠です。
CSRが企業の上辺を飾る「仮面」ではなく、「素顔」であるためにも、2012年は一人・一社でも多くの企業・経営陣とCSR関係者が、ガバナンスからコミュニケーションまでを貫く「CSR観」を持つことを期待して筆を擱きたいと思います。
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